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陶芸家 片山雅美 1220度の美にこだわる 

赤織部の妙手

取材日 20200714         

 

1220°の世界。京都山科で赤い織部を手掛ける作陶家がいる。その名は片山雅美。片山雅美さんとの出会いはさかのぼること数年。色々なご縁で過去に特別なツアーも実施していただきました。今回は片山雅美先生と赤織部の出会いに触れながら陶芸へのこだわりを教えていただきました。

 

織部焼とは

安土桃山時代末期(1580年ごろ),岐阜県土岐市付近ではじまる。江戸時代(1600年~)を通じて愛知県瀬戸市一帯で焼かれた瀬戸焼の一種。狭義には安土桃山時代の美濃焼を指す言葉。

茶人古田織部によって作られ始めたといわれる。主として九(く)尻元(じりもと)屋敷(やしき)窯(土岐市泉町九尻) で焼かれたといわれます。

天明年間 (1781~89) から瀬戸北島で再興されたが,磁器の普及により衰退する。幕末には桃山期の織部を模したものが作られ世に知られた。現在では茶器に留まらず、そのデザイン性・独創性から様々な料理シーンで使われるようになりました。

 

≪織部焼の特徴≫

形が面白い:「織部好み」と評される斬新で歪んだ器形が多い。

文様が書かれている:草画体の簡素な絵文様を描き,青緑色の釉 (うわぐすり) をかけた絵織部と呼ばれる作品が最も多い。

 

 

夢が漠然としていた高校時代

高校は普通学科で過ごし、建築家になりたいという漠然とした夢はあったものの、特に就職先は考えていなかった片山雅美氏。

とりわけ、人としゃべるのが苦手だったが、美術や図画工作は大好きだった。その中でも特に絵をかくのが好きだった。当時、父親が山科刑務所に勤務しており、刑務所の中の職業訓練養成所のような所に指導にきていた陶芸家と父親が懇意にしていた。

父と一緒に陶芸家の方を訪ね、初めて焼き物の世界を目にすることになる。

轆轤、絵付など目のあたりにし、陶芸への興味がわく。

            

陶芸の道を歩み出した京都市工業試験所、林平八郎(陶芸家)との出会い

知人から京都市工業試験所への入所を勧められ工業試験所に入学する。当時、自分のほかに陶芸家業を継ぐ人や美術系の学生など18人のひとたちと勉強した。試験所での在籍中は仲間もでき美術館、ギャラリーや陶芸の地に出かけていった。一方で、夏休みも轆轤を回し休むことなく、釉薬・デッサンなど必死で勉強した。

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師匠との出会い

1年が経過し、もう1年試験場で釉薬など専門的な事を勉強しようと考えていたとき、

林平八郎氏(陶芸家)に気に入られ、弟子を探している先生を勧めてもらい、京都五条馬町の叶光夫氏(陶芸家)の所に行くことになる(当時20歳)。

 

「陶芸」という世界・作品に触れ、叶氏の創り出す陶磁器は今まで目にしたことがない作品でとても感化された。

しかし、叶氏が4か月後突然逝去。そのあと、氏の甥の叶松谷窯元で分業制の仕事技術、窯掃除、鋳込み(土を泥にして石膏型に流し入れ成形する技法。同じものを創る)などを繰り返し、ここで1年半ほど見習った。

 

日展入選で更なる陶芸意欲がわく

叶光夫氏の1番弟子、西川實(みのる)氏が伏見深草で窯を築き、工房を拡げる時に声をかけてもらい、この深草窯で住み込み弟子見習いを始める。土曜日の晩だけ自宅に帰る生活を7年ほど行った。住み込み中は、雑用から下準備、窯詰めなど、仕事は多岐に渡ったものの、自身もここで作陶に没頭した。住み込みは先生と接する時間が長いので色々な話が聞け、来客者と接する機会も多くその過程で苦手な人としゃべることも自信がついてきた。この住み込み中に公募展に出品も許され25歳で日展に初入選した。

そのころは黒い作品にあこがれ、黒い作品制作にこだわった。

 

「黒」をおいかけた30代

成形後、下地に黒化粧を塗り灰釉をかけ黒陶に焼き上げる。下地に線刻文様を書いていたその線刻文様の中に白いカシュウ(合成漆)を刷り込み文様を浮かび上がらせる。          

 

黒白の作品から搔き落とし技法の作品を作り出す。成型後生地を乾かし、白い磁土に顔料をまぜた白・青・緑・黄色化粧土を文様のパターンで色分けをして、何度も塗り重ね下地を作り出し素焼きする。そのあと黒化粧土をコンプレッサーで全体にかける。全体にかかったところで小刀を用いて下地の文様箇所を引っ搔き線彫りすると下の色文様が織物のように浮かび上がってくる作品造りを30代~40代ごろまで制作出品していた。

 

その地の土を使い、時代の原材料をつかう。陶芸は「時代の結晶」

当時、京都五条坂清水寺界隈は陶芸にむいた土が取れたそうで、五条路を拡げる時にも赤土が採れたようです。

今、土は当然ながら、釉薬や灰などの原材料がだんだんと手に入らなくなってきている。

その時代の材料(天然の原料)で作陶するため、陶芸の作品は自然を象徴する「結晶」である。

 

お寺は焼き物と関わりが深い。御庭窯といい、お寺の土で穴窯の歴史がある。(御室焼の仁清が有名)

今、何焼きと聞かれることが多い。主に信楽の土を使ってオリジナル作品造りをしている。

 

京都の長い焼き物の歴史

昭和40年代は登り窯もまだ稼働しており、昭和42年試験場で勉強中、清水六兵衛窯の薪運びのアルバイトなどもやった。六兵衛窯、最後の登り窯での焼成であったように思う。現在も京都市内に4~5基の登窯が残されているが煙を上げる事が出来ない。電気窯やガス窯が主流である。

 

 

1220°の奇跡、赤織部焼の誕生

電気窯に薪をくべ、還元をかける。プロパンガス窯にと焼き方も変わってきた。電気窯は取れ高こそ高いものの、その一方で作品の変化に乏しい。

陶芸をはじめたころ、叶光夫先生が取り組んでおられた技法を思いだした。それは炭化焼成である。

(炭化焼成とは、匣(さや)=土の箱に炭を入れ密閉し、酸素不足で焼く方法)

銅釉を酸化焼成すると青緑織部に、還元をかけると赤色に変わる。

同じ土を用い、同じ焼き方で釉薬を工夫し、試行錯誤のなか、ある答えにたどり着く。それは1220°の世界である。自分で調合した織部釉薬を1220°の炭化焼成すると艶のないマットな赤色、いい案配になる。

釉薬の調合でもかわるが、原料の灰でも変わってくる。1220°とこの釉薬などが相まって「赤織部」の世界が創りだされている。

 

料理と華の相性を考え、作陶に没頭

焼き物の色は窯から出すまで予測できない。それは一期一会の出会い。一方で、どんな作品でも料理や華などの相性があり、これが合致し融合すると作者は尚一層よろこびが増す。

 

未完成の赤織部

 

陶芸を手掛けて50年。約半世紀になりますが、これからは後進の育成はもちろんのこと、まだ自分の中での答えは出ていません」と片山雅美氏は語る。片山先生の探求はつきない。

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